★国連機関でも議論されるISDSの問題点
2020年1月20日~24日、国連国際商取引法委員会(UNCITRAL)のワーキンググループIIIが、投資家対国家紛争解決(ISDS)改革に関する第38回目の会合をウィーンにて開催した。106カ国を代表する400人以上の代表者の他、66の国際機関とNGO等も参加する大規模な会合となった。
このプロセスは日本ではほとんど知られていない。多くの貿易協定に含まれているISDSというしくみついては、かねてより国際的に大きな批判と疑問が提起されてきた。市民社会の運動だけでなく、途上国・先進国の政府や、国際弁護士、官僚などの間でも、その問題点が指摘されてきたのである。
これを受け、UNCITRALでは2017年よりISDSの「改革」に着手する。上記ワーキンググループが立ち上げられ、今回で実に38回目となる通り、多くの議論の場を持ってきた。
同ワーキンググループでは、これまでの議論の結果、ISDSの課題を次の3つに大別している。
- 裁定の一貫性、予測可能性、正確性の欠如
- 仲裁人および意思決定者の行動
- 手続きの費用と期間
国際市民社会の観点から、わかりやすく言えば、ISDSは国内の司法権限を越え、貿易協定・投資協定の締約国の企業・投資家が、相手国の法律や規制強化、政策決定によって「利益を損ねた」として提訴できるしくみである。1987年~2018年までの提訴件数は942件、2020年2月現在では983ほどの案件が提訴されており、基本的には先進国の企業・投資家が、途上国・新興国政府を提訴している(もっとも、近年は先進国同士の案件も増えている)
。すでに南アフリカやインドネシアは締結した貿易・投資協定からISDSを削除することを決めている他、TPPやRCEP、日EU経済連携協定などでもISDSは常に激しい論点となってきたことからも、国際社会においてISDSが問題であるという認識はほぼ一致している。
1987年~2018年までのISDS提訴件数 |
ISDSのしくみは、そもそも企業・投資家を保護するものである。このしくみが導入され始めたのは1960年代以降で、当時、先進国の投資家が途上国に投資をする際に、軍治政権下でのクーデターが起こることもあり、また政府による企業の工場等の接収が突如行われることがあった。国内法が未整備であることから法律や規制が頻繁に変えられたり撤回されることもあった。こうした問題から投資家を保護するために導入されたのがISDSである。しかし時代を経る中で、ISDSの用いられ方は変容していった。拡大的な使用や、投資家に有利な裁定メカニズムの問題などによって、人々の暮らしや公共政策、環境保護の大きな脅威になってきたと言えよう。
★米国の方針転換
長らく、ISDSをあらゆる貿易協定に埋めこみ、自国の企業の投資行為を保護しようとしてきたのは、言うまでもなく米国である。90年代に米国が次々と締結したFTAの多くにはISDSが含まれており、直近ではTPP協定においても、米国は強くISDSの導入を求めた。
しかし、トランプ政権誕生後、米国はTPPから離脱。そしてトランプ流の二国間貿易協定の方向がとられている中で、米国のISDSへの方針は大きく変わった。端的に言えば、米国はISDSを今後の貿易協定に入れることを止めたのだ。実際、2019年12月に合意に至ったUSMCA(メキシコ、カナダ、米国)協定からも、ISDSは削除された。
米国でどのような変化があったのか。米国で最大規模のNGOの一つパブリック・シチズンのロリ・ワラック氏は次のように解説する。
「何十年もの間、ISDSは米国の大企業の『槍』として機能してきました。多国籍企業は、ISDSの3人の仲裁人(国際弁護士)によるパネルにて、相手国の国内政策が自分たち投資家の特権に違反しているという主張をします。仲裁人は、相手国政府の納税者から無制限の補償を要求する権限を有します。
しかし2015年以降、米国ではISDSに対して、市民社会はもちろん超党派の国会議員からも問題提起がされてきました。2016年、米国とEUの貿易協定TTIP交渉は中断されましたが、その際の大きな要因は、ISDSでした。また2015年、TPP協定が米国議会で過半数を獲得できなかった主な理由は、TPP協定にISDS条項が含まれていたことでした。
NAFTA再交渉に向け有害条項に反対する米国市民 |
そして2019年12月、米国議会はUSMCAからISDS条項を削除することに同意しました。 同様に、今後の米国-EU、米国-英国の貿易交渉でもISDSは除外されるでしょう。米国は方針を逆転させたのです」
トランプ政権はTPP協定から離脱した後、NAFTAの再交渉に着手した。これがUSMCAである。NAFTAの下、米国企業はカナダに対して27件、メキシコに対して20件のISDS提訴を行っているが、一方でカナダ企業から16件、メキシコ企業から1件の提訴を逆に受けている(NAFTAの下での提訴案件総数は66件)。特に近年、話題となったのはダゴタ・パイプライン事件といわれるもので、米国先住民が暮らす土地を含む広大な都市に、カナダ企業が大規模なパイプライン開発を行ってきた。オバマ大統領が環境への影響などを理由に、この計画の撤回を表明すると、カナダ企業はNAFTAのISDS条項を用いて米国政府を提訴したのだ。この件は、米国市民社会によるISDSへの反対運動に火をつけた。ワラック氏はさらに米国がISDSを見限った理由を考察する。
「トランプ政権の『環境保護に冷たく、企業に優しい世界観』からすれば、米国がISDSを捨てるという判断は驚かれるかもしれません。しかしUSMCAに関して米国議会でなされた議論を見れば明らかです。リベラル層を代表する民主党議員は、ISDSを『企業に有利な、公共政策の脅威』と見なしています。一方、トランプ政権の貿易政策を支持している議員を含む保守派は、ISDSを『国家主権に対する脅威』と考えています。保守派にとっては、米国の外で活動する米国企業を保護することはもはやそんなに重要ではなく、むしろ、彼らは米国内で活動する外国企業に特権的待遇を与えることに反対しています。つまり、リベラル派と保守派は、『多少異なる理由』から、ISDSは取り除くべきとの結論で一致したのです」
この数年、米国市民社会の多くの人たちとTPP反対やISDSの問題点を私も共有し、活動をしてきた。そうした立場からも米国のこの方針転換は驚くべき出来事である。確実に、世界の多くの国ではISDSを含む貿易体制に対し、大きな疑問を抱き、論争しながらこうした有害条項を取り除いたり、修正する方向へと舵を切っているのだ。
★新たなメカニズムで投資家保護を温存したいEUの意向
EUもまた、長らく投資家保護のためにISDSを推進してきた。欧州にも多国籍企業は多く、ISDS案件の多くはオランダ、英国などの企業が提訴する。しかし米国より数年先に、EU市民社会からの提起もあって欧州委員会や欧州議会等では、ISDSの問題点が指摘されてきた。その結果、現状のISDSに若干の「改善」を施した新たな制度を提案することになる。これが国際投資裁判所(ICS)と言われるものだ。ISDSからの改善点としては、二審制の導入や、案件ごとに仲裁廷が設置されるISDSとは異なり常設機関とすることなどだ。欧州市民社会はICSについて「ISDSのマイナーチェンジに過ぎず、投資家が強く保護される不平等な仕組みは変わらない」と批判している。
ICSはISDSの微修正に過ぎないと批判する欧州市民団体 |
いずれにしても、ICSがEUとしての正式な提案となった後は、貿易・投資協定においてEUはISDSを提案していない。2019年2月に発効した日EU経済連携協定においても、EUは当初からISDSを完全に否定し、ICSを提案してきた。しかし日本政府は旧来のISDSを一貫して支持しており、EUの主張と並行線が続いた。結果的に、同協定の投資章の中にはいかなる投資家保護規定も入らず、「継続協議する」という曖昧な表現で決着することになった。
★国際的なヘゲモニー争い―逆転する米とEUの立ち位置
冒頭で紹介したUNCITRIALのワーキンググループの会議は、これら様々な主張の国々の意見をこれまで集約し、議論を重ねてきた。
注意しなければならないのは、国連機関だからといって、完全に公正中立な議論が行われているわけではないということだ。つまり、どのような投資家保護規定を貿易き・投資協定に埋め込んでいくかをめぐって、各国は覇権争いをしているのだ。加えて、この議論の場には、企業・政府それぞれから依頼されて仲裁廷での判定を決める国際弁護士の存在が大きく影響している。これら弁護士にとっては、投資家と国家の紛争はビジネスの機会でもある。完全に廃止されてしまえば食い扶持を失うことにもなりかねないし、また極端なシステムの変更もこれまでの活動の支障となる場合もあるだろう。従って、彼らは「専門家」としてUNCITRALの会議に参画し、影響力を行使しているのだ。
私自身も2018年9月、韓国で開催されたUNCTRALのアジア地域会議にNGOとして参加したが、基本的にこの場は「ISDSの改革」を目指しており、市民社会からの根本的なISDS廃止論が受け容れられる余地はほとんどない。また議論も非常に技術的な面に偏っているという印象を受けた。
UNCTRALでの議論は、米国がISDSを導入しない方針を決めつつあった2年ほど前から多少様子が変わってきている。南アフリカ、インドネシア、インド、ブラジル、エクアドルなどの国々は、近年、ISDSの機能を多きく縮小したり、協定から削除している。また前述の通り、米国は大きく方針を転換した。そんな中、EUは既存のISDSを否定しつつも、一貫して独自の方式であるICSを提起し続けている。国際的な法制度の構築やルール形成を長くリードしてきたのはEUであることは間違いない。今回のISDSをめぐる動きの背景には、もともと米国に牽引されてきたISDS(=投資家保護のしくみ)について、EUが管理や執行の権限を奪取しようという意図があるのではないか。
★旧来のISDSに固執する時代遅れの日本
最後に、日本の方針について触れたい。先述の通り、日本は2000代以降、多くのFTA・EPAを締結してきているが、その多くにISDSを採用している。しかし主に途上国・新興国とのFTA・EPAにISDSを導入してきた時代と、TPP協定以降、先進国を含む相手国との間のFTA・EPAでは状況が異なる。例えばTPP協定では当初は米国の力によってISDSが導入されたが、当の米国はTPP協定から離脱し、今やリベラル派・保守派ともにISDSを放棄するようになったことはすでに述べた通りである。日EU経済連携協定においても、日本は旧来のISDSを主張するも、EUは新たな仕組みであるICSを提案、平行線で結局この協定には投資家保護のメカニズムは含まれていない。さらに、現在交渉中のRCEPについても、リーク文書から日本と韓国がISDSを強く提案していることが明らかになっている。しかし、ASEAN諸国やインド等がこれに猛反発し、非公開筋の情報によればRCEPの最終協定文からもISDSは削除されたということだ。
このように世界の多くの国がISDSを放棄しつつある中で、ISDSを変わらず推進し続ける日本の姿は異様でもある。日本の頑ななISDS支持の一つの傍証として、興味深いテキストがある。2018年7月5日、経団連が外務省、経産省の担当者らとともに開催した「投資関連協定に関する日本政府の取り組みと投資家対国家の仲裁の活用について聞く[1]」という会合である。この時、経済産業省通商政策局・鈴木謙次郎経済連携交渉官は次のように述べている。
「日EU EPAの投資家対国家の紛争処理手続きを含む投資保護等については、協議を継続している。日本がISDSを推進する一方、EUはICS(常設投資裁判所)を提案しており、意見の乖離が大きい。ISDSのもとで投資家寄りの決定が下されれば国家の規制権限が制約されるとの反対運動が背景にある。ISDSは、双方がそれぞれ選任した仲裁人と双方が合意した仲裁人の3名で判断がなされるのに対し、ICSは締約国の選定したリストから無作為に選定されるフルタイムの裁判官、二審制の採用などが特徴である。投資家が裁判官を選定できないこと、適格性要件の厳格化等により裁判官の選択肢が大きく狭まる懸念がある。何が公正・公平な制度かをあらためて考えなければならない。EUは、二審制について、判断の一貫性を確保し予見可能性が高まると主張するが、上訴審設置・維持にかかるコストや、審議の長期化によるコスト増大が懸念される」
また同じく出席していた小原淳見弁護士(国際商業会議所国際仲裁裁判所副所長)は次のように発言した。
「企業は投資先の外国政府(立法・行政・司法)に翻弄されがちである。不当な取り扱いを受けた場合、日本政府に相手国との交渉を依頼しても相手国が応じるとは限らず、強制力もない。相手国の国内裁判の利用も可能だが、司法の腐敗や独立性の欠如など問題も多い。
ISDSの利点は、政治色の少ない中立的な手続きで強制力のある法的判断が得られることにある。ISDSでは企業が少なくとも1人仲裁人を選ぶ権利が確保されているが、EUがカナダとの条約のなかで提案するICSでは、国家があらかじめすべての裁判官を国際公法の研究者等から選ぶことから、手続きが政治化し、企業の視点が十分に反映されないまま判断が下される懸念がある。したがって、企業にとって投資協定にICSではなくISDSが盛り込まれることが重要である」
これらの議論は、そもそも米国やその他の国で激しい議論となってきた、国家の主権や公共政策にとって、投資家保護メカニズムがいかに有害であるかという本質的な点が欠落している。世界の多くの国では、「ISDSか、ICSか」という二項対立の議論ではなく、グローバル化の中でどのように主権や公共政策を守るかという観点から、根本的に投資家保護のしくみを問い直しているのである。
投資家保護のための何らかのメカニズムを貿易・投資協定に含むこと自体は、筆者も否定しない。しかし、それは既存のISDSでは決してない。他国の選択をふまえつつ、日本においても貿易のあり方そのものを考え直すような議論を広く呼び掛けていきたいと思う。
【参考資料】
▶国連国際商取引法委員会(UNCITRAL)ワーキンググループIII
▶”The US Drops ISDS”
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