2020年2月8日土曜日

米国はISDSを捨て、EUは新たなメカニズムを提案―日本の選択は?


★国連機関でも議論されるISDSの問題点
 2020年1月20日~24日、国連国際商取引法委員会(UNCITRAL)のワーキンググループIIIが、投資家対国家紛争解決(ISDS)改革に関する第38回目の会合をウィーンにて開催した。106カ国を代表する400人以上の代表者の他、66の国際機関とNGO等も参加する大規模な会合となった。
 このプロセスは日本ではほとんど知られていない。多くの貿易協定に含まれているISDSというしくみついては、かねてより国際的に大きな批判と疑問が提起されてきた。市民社会の運動だけでなく、途上国・先進国の政府や、国際弁護士、官僚などの間でも、その問題点が指摘されてきたのである。
 これを受け、UNCITRALでは2017年よりISDSの「改革」に着手する。上記ワーキンググループが立ち上げられ、今回で実に38回目となる通り、多くの議論の場を持ってきた。
 同ワーキンググループでは、これまでの議論の結果、ISDSの課題を次の3つに大別している。

  •  裁定の一貫性、予測可能性、正確性の欠如
  •  仲裁人および意思決定者の行動
  •  手続きの費用と期間

 国際市民社会の観点から、わかりやすく言えば、ISDSは国内の司法権限を越え、貿易協定・投資協定の締約国の企業・投資家が、相手国の法律や規制強化、政策決定によって「利益を損ねた」として提訴できるしくみである。1987年~2018年までの提訴件数は942件、2020年2月現在では983ほどの案件が提訴されており、基本的には先進国の企業・投資家が、途上国・新興国政府を提訴している(もっとも、近年は先進国同士の案件も増えている)
1987年~2018年までのISDS提訴件数
。すでに南アフリカやインドネシアは締結した貿易・投資協定からISDSを削除することを決めている他、TPPやRCEP、日EU経済連携協定などでもISDSは常に激しい論点となってきたことからも、国際社会においてISDSが問題であるという認識はほぼ一致している。
 ISDSのしくみは、そもそも企業・投資家を保護するものである。このしくみが導入され始めたのは1960年代以降で、当時、先進国の投資家が途上国に投資をする際に、軍治政権下でのクーデターが起こることもあり、また政府による企業の工場等の接収が突如行われることがあった。国内法が未整備であることから法律や規制が頻繁に変えられたり撤回されることもあった。こうした問題から投資家を保護するために導入されたのがISDSである。しかし時代を経る中で、ISDSの用いられ方は変容していった。拡大的な使用や、投資家に有利な裁定メカニズムの問題などによって、人々の暮らしや公共政策、環境保護の大きな脅威になってきたと言えよう。

★米国の方針転換
 長らく、ISDSをあらゆる貿易協定に埋めこみ、自国の企業の投資行為を保護しようとしてきたのは、言うまでもなく米国である。90年代に米国が次々と締結したFTAの多くにはISDSが含まれており、直近ではTPP協定においても、米国は強くISDSの導入を求めた。
 しかし、トランプ政権誕生後、米国はTPPから離脱。そしてトランプ流の二国間貿易協定の方向がとられている中で、米国のISDSへの方針は大きく変わった。端的に言えば、米国はISDSを今後の貿易協定に入れることを止めたのだ。実際、2019年12月に合意に至ったUSMCA(メキシコ、カナダ、米国)協定からも、ISDSは削除された。
 米国でどのような変化があったのか。米国で最大規模のNGOの一つパブリック・シチズンのロリ・ワラック氏は次のように解説する。
「何十年もの間、ISDSは米国の大企業の『槍』として機能してきました。多国籍企業は、ISDSの3人の仲裁人(国際弁護士)によるパネルにて、相手国の国内政策が自分たち投資家の特権に違反しているという主張をします。仲裁人は、相手国政府の納税者から無制限の補償を要求する権限を有します。
 しかし2015年以降、米国ではISDSに対して、市民社会はもちろん超党派の国会議員からも問題提起がされてきました。2016年、米国とEUの貿易協定TTIP交渉は中断されましたが、その際の大きな要因は、ISDSでした。また2015年、TPP協定が米国議会で過半数を獲得できなかった主な理由は、TPP協定にISDS条項が含まれていたことでした。
NAFTA再交渉に向け有害条項に反対する米国市民
そして2019年12月、米国議会はUSMCAからISDS条項を削除することに同意しました。 同様に、今後の米国-EU、米国-英国の貿易交渉でもISDSは除外されるでしょう。米国は方針を逆転させたのです」
 トランプ政権はTPP協定から離脱した後、NAFTAの再交渉に着手した。これがUSMCAである。NAFTAの下、米国企業はカナダに対して27件、メキシコに対して20件のISDS提訴を行っているが、一方でカナダ企業から16件、メキシコ企業から1件の提訴を逆に受けている(NAFTAの下での提訴案件総数は66件)。特に近年、話題となったのはダゴタ・パイプライン事件といわれるもので、米国先住民が暮らす土地を含む広大な都市に、カナダ企業が大規模なパイプライン開発を行ってきた。オバマ大統領が環境への影響などを理由に、この計画の撤回を表明すると、カナダ企業はNAFTAのISDS条項を用いて米国政府を提訴したのだ。この件は、米国市民社会によるISDSへの反対運動に火をつけた。ワラック氏はさらに米国がISDSを見限った理由を考察する。
「トランプ政権の『環境保護に冷たく、企業に優しい世界観』からすれば、米国がISDSを捨てるという判断は驚かれるかもしれません。しかしUSMCAに関して米国議会でなされた議論を見れば明らかです。リベラル層を代表する民主党議員は、ISDSを『企業に有利な、公共政策の脅威』と見なしています。一方、トランプ政権の貿易政策を支持している議員を含む保守派は、ISDSを『国家主権に対する脅威』と考えています。保守派にとっては、米国の外で活動する米国企業を保護することはもはやそんなに重要ではなく、むしろ、彼らは米国内で活動する外国企業に特権的待遇を与えることに反対しています。つまり、リベラル派と保守派は、『多少異なる理由』から、ISDSは取り除くべきとの結論で一致したのです」
 この数年、米国市民社会の多くの人たちとTPP反対やISDSの問題点を私も共有し、活動をしてきた。そうした立場からも米国のこの方針転換は驚くべき出来事である。確実に、世界の多くの国ではISDSを含む貿易体制に対し、大きな疑問を抱き、論争しながらこうした有害条項を取り除いたり、修正する方向へと舵を切っているのだ。

★新たなメカニズムで投資家保護を温存したいEUの意向
 EUもまた、長らく投資家保護のためにISDSを推進してきた。欧州にも多国籍企業は多く、ISDS案件の多くはオランダ、英国などの企業が提訴する。しかし米国より数年先に、EU市民社会からの提起もあって欧州委員会や欧州議会等では、ISDSの問題点が指摘されてきた。その結果、現状のISDSに若干の「改善」を施した新たな制度を提案することになる。これが国際投資裁判所(ICS)と言われるものだ。ISDSからの改善点としては、二審制の導入や、案件ごとに仲裁廷が設置されるISDSとは異なり常設機関とすることなどだ。欧州市民社会はICSについて「ISDSのマイナーチェンジに過ぎず、投資家が強く保護される不平等な仕組みは変わらない」と批判している。
ICSはISDSの微修正に過ぎないと批判する欧州市民団体
 いずれにしても、ICSがEUとしての正式な提案となった後は、貿易・投資協定においてEUはISDSを提案していない。2019年2月に発効した日EU経済連携協定においても、EUは当初からISDSを完全に否定し、ICSを提案してきた。しかし日本政府は旧来のISDSを一貫して支持しており、EUの主張と並行線が続いた。結果的に、同協定の投資章の中にはいかなる投資家保護規定も入らず、「継続協議する」という曖昧な表現で決着することになった。

★国際的なヘゲモニー争い―逆転する米とEUの立ち位置
 冒頭で紹介したUNCITRIALのワーキンググループの会議は、これら様々な主張の国々の意見をこれまで集約し、議論を重ねてきた。
 注意しなければならないのは、国連機関だからといって、完全に公正中立な議論が行われているわけではないということだ。つまり、どのような投資家保護規定を貿易き・投資協定に埋め込んでいくかをめぐって、各国は覇権争いをしているのだ。加えて、この議論の場には、企業・政府それぞれから依頼されて仲裁廷での判定を決める国際弁護士の存在が大きく影響している。これら弁護士にとっては、投資家と国家の紛争はビジネスの機会でもある。完全に廃止されてしまえば食い扶持を失うことにもなりかねないし、また極端なシステムの変更もこれまでの活動の支障となる場合もあるだろう。従って、彼らは「専門家」としてUNCITRALの会議に参画し、影響力を行使しているのだ。
 私自身も2018年9月、韓国で開催されたUNCTRALのアジア地域会議にNGOとして参加したが、基本的にこの場は「ISDSの改革」を目指しており、市民社会からの根本的なISDS廃止論が受け容れられる余地はほとんどない。また議論も非常に技術的な面に偏っているという印象を受けた。
 UNCTRALでの議論は、米国がISDSを導入しない方針を決めつつあった2年ほど前から多少様子が変わってきている。南アフリカ、インドネシア、インド、ブラジル、エクアドルなどの国々は、近年、ISDSの機能を多きく縮小したり、協定から削除している。また前述の通り、米国は大きく方針を転換した。そんな中、EUは既存のISDSを否定しつつも、一貫して独自の方式であるICSを提起し続けている。国際的な法制度の構築やルール形成を長くリードしてきたのはEUであることは間違いない。今回のISDSをめぐる動きの背景には、もともと米国に牽引されてきたISDS(=投資家保護のしくみ)について、EUが管理や執行の権限を奪取しようという意図があるのではないか。

★旧来のISDSに固執する時代遅れの日本
 最後に、日本の方針について触れたい。先述の通り、日本は2000代以降、多くのFTA・EPAを締結してきているが、その多くにISDSを採用している。しかし主に途上国・新興国とのFTA・EPAにISDSを導入してきた時代と、TPP協定以降、先進国を含む相手国との間のFTA・EPAでは状況が異なる。例えばTPP協定では当初は米国の力によってISDSが導入されたが、当の米国はTPP協定から離脱し、今やリベラル派・保守派ともにISDSを放棄するようになったことはすでに述べた通りである。日EU経済連携協定においても、日本は旧来のISDSを主張するも、EUは新たな仕組みであるICSを提案、平行線で結局この協定には投資家保護のメカニズムは含まれていない。さらに、現在交渉中のRCEPについても、リーク文書から日本と韓国がISDSを強く提案していることが明らかになっている。しかし、ASEAN諸国やインド等がこれに猛反発し、非公開筋の情報によればRCEPの最終協定文からもISDSは削除されたということだ。
 このように世界の多くの国がISDSを放棄しつつある中で、ISDSを変わらず推進し続ける日本の姿は異様でもある。日本の頑ななISDS支持の一つの傍証として、興味深いテキストがある。2018年7月5日、経団連が外務省、経産省の担当者らとともに開催した「投資関連協定に関する日本政府の取り組みと投資家対国家の仲裁の活用について聞く[1]」という会合である。この時、経済産業省通商政策局・鈴木謙次郎経済連携交渉官は次のように述べている。
「日EU EPAの投資家対国家の紛争処理手続きを含む投資保護等については、協議を継続している。日本がISDSを推進する一方、EUはICS(常設投資裁判所)を提案しており、意見の乖離が大きい。ISDSのもとで投資家寄りの決定が下されれば国家の規制権限が制約されるとの反対運動が背景にある。ISDSは、双方がそれぞれ選任した仲裁人と双方が合意した仲裁人の3名で判断がなされるのに対し、ICSは締約国の選定したリストから無作為に選定されるフルタイムの裁判官、二審制の採用などが特徴である。投資家が裁判官を選定できないこと、適格性要件の厳格化等により裁判官の選択肢が大きく狭まる懸念がある。何が公正・公平な制度かをあらためて考えなければならない。EUは、二審制について、判断の一貫性を確保し予見可能性が高まると主張するが、上訴審設置・維持にかかるコストや、審議の長期化によるコスト増大が懸念される」
 また同じく出席していた小原淳見弁護士(国際商業会議所国際仲裁裁判所副所長)は次のように発言した。
「企業は投資先の外国政府(立法・行政・司法)に翻弄されがちである。不当な取り扱いを受けた場合、日本政府に相手国との交渉を依頼しても相手国が応じるとは限らず、強制力もない。相手国の国内裁判の利用も可能だが、司法の腐敗や独立性の欠如など問題も多い。
ISDSの利点は、政治色の少ない中立的な手続きで強制力のある法的判断が得られることにある。ISDSでは企業が少なくとも1人仲裁人を選ぶ権利が確保されているが、EUがカナダとの条約のなかで提案するICSでは、国家があらかじめすべての裁判官を国際公法の研究者等から選ぶことから、手続きが政治化し、企業の視点が十分に反映されないまま判断が下される懸念がある。したがって、企業にとって投資協定にICSではなくISDSが盛り込まれることが重要である」
 これらの議論は、そもそも米国やその他の国で激しい議論となってきた、国家の主権や公共政策にとって、投資家保護メカニズムがいかに有害であるかという本質的な点が欠落している。世界の多くの国では、「ISDSか、ICSか」という二項対立の議論ではなく、グローバル化の中でどのように主権や公共政策を守るかという観点から、根本的に投資家保護のしくみを問い直しているのである。
投資家保護のための何らかのメカニズムを貿易・投資協定に含むこと自体は、筆者も否定しない。しかし、それは既存のISDSでは決してない。他国の選択をふまえつつ、日本においても貿易のあり方そのものを考え直すような議論を広く呼び掛けていきたいと思う。

【参考資料】
▶国連国際商取引法委員会(UNCITRAL)ワーキンググループIII

▶”The US Drops ISDS”


2019年11月5日火曜日

RCEPとは何か―日本など先進国が求める自由貿易ルール


※本稿は2017年8月時点での原稿である。2019年11月4日、RCEP参加国はタイ・バンコクにて「インドを除く15カ国での合意を目指す」との共同声明文を出した。今後、インドの動向はもちろん、最終合意に向けた動きが加速すると思われるが、そもそもRCEPとは何か、各国はどのような意向を持っているのかを概説するため、2年前の記事を再掲する。特に、アジア各国(特に途上国)の農民、先住民族、労働者にとって日本や韓国が提案してきたTPPレベルの知財、投資、電子商取引ルールは「有害」とされてきた。インド離脱に際しても、インド国内では農民、労働者、女性たち等による強固な反対運動が展開されてきた。こうした事実を含めて、メガ自由貿易協定の問題を包括的に考える契機にしていただければ幸いである。(2019年11月4日)




RCEPとは何か
 二〇一六年一一月、米国でトランプ大統領が誕生してから、世界の風景は一変した。最も大きな出来事の一つは、米国のTPP撤退だろう。二〇一〇年以降、米国はTPPやTTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)などの自由貿易協定を通商政策の柱に位置付け、交渉では一貫して主導権を握ってきた。その米国自身がTPPを「悪しき協定」と定義し撤退したことは、あまりにも皮肉な結末だった。
 TPPの難航と崩壊は、決して特殊な事例ではない。WTO停滞の中で二国間貿易協定(FTA)が推進され、その延長上に二〇一〇年以降に到来したのがメガFTA時代だ。現在交渉中のメガFTAは、TPP、TTIP、日EU経済連携協定、TiSA、日中韓FTAなどである。これらは交渉開始から約四年以上経つが、いずれもこの一~二年で明らかに停滞している。RCEPもその一つである。
 二〇一三年五月から始まったRCEP交渉は、ASEAN一〇か国(ブルネイ、ミャンマー、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)と、ASEANと自由貿易協定(FTA)を締結している中国、インド、日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの計一六カ国による自由貿易協定である。TPPの経済規模は三一〇〇兆円(世界貿易の約四割)、八億人の市場であるのに対し、RCEPは約二〇〇〇兆円(世界貿易の約三割)、人口では世界全体の約半分の三四億人もの広域経済圏となる。
 交渉分野は広く、モノとサービスの貿易から、投資、知的所有権、食の安心・安全、電子商取引、中小企業、経済的・技術的な協力、など合計一五分野と言われている。
 秘密交渉で進められている点もTPPと共通している。実はRCEPにはTPPの時のような「保秘契約」は存在しないのだが、TPP交渉よりも政府からの情報量は圧倒的に少なく、また漏洩されるリーク文書も少ない。ところがビジネス界はかなり交渉にコミットしており、ここに情報開示の非対称性が存在する。私自身は二年ほど前から国際NGOメンバーの一員として、RCEPについても情報収集と発信を行ってきたが、日本でほとんどの人がRCEPを知らないし、マスメディアもほとんど扱わない。

中国主導というミスリード
 RCEPには、文化や宗教、そして経済発展の度合いも、TPPをはるかに超える多様性・多元性が存在している。事実、一六カ国の経済指標は大きな開きがある。中国、日本などの経済大国をはじめオーストラリア、韓国などの先進国が含まれる一方、最も貧しい後発開発途上国(LDC)やインドネシア、フィリピンなどの中所得国も参加する。LDCとは、所得水準、健康や就学率、経済的脆弱性などを基準に定義する国々で、現在、世界で四八カ国が該当する。RCEP参加国の中ではラオス、カンボジア、ミャンマーだ。例えばラオスでは一日一.九〇ドル未満(年間約七万六〇〇〇円)で生活する「絶対的貧困層」は、全人口六五〇万人のうち過半数もいる。こうした国と、日本など先進国との経済格差はあまりに大きい。
 RCEPは「中国主導」とよく比較される。しかし、様々な情報や各国NGO、交渉官と話す中で得られる印象は、決してRCEPを主導するのは中国ではないということだ。
ここには二つの意味がある。RCEPの原点は、二〇一一年一一月、インドネシア・バリ島で開催された第一九回ASEANサミットにおいて、アジア広域経済圏の構想として出された提案である。交渉の中でも、ASEANの結束は堅く、まさに一六カ国の「ハブ」の役割として、日中韓印豪NZの六カ国に対峙しているというのが基本的な構図だ。実際、LDCや低所得国の中には、二~三カ月に一度もある会合に交渉官を派遣する資金に苦しむ国もあるため、大国の都合で交渉が進まないよう結束する必要もある。
 「中国主導」がミスリードであるもう一つの側面は、日本やオーストラリア、ニュージーランド、韓国のイニシアティブである。これらの国はTPP参加国あるいは米国とFTAを締結済みの国である。言い換えれば、TPPや韓米FTAの強い自由化水準を「すでに了解した」国である。TPPの雲行きが怪しくなる中で、「TPPグループ」の国々は、TPPと同じ内容をRCEPにて提案するようになる。インドや中国はといえば、それぞれの自国の論理で鵺のように対応している印象がある。創設五〇年にあたる二〇一七年中の妥結をめざすASEANは早期合意を優先しつつも、急激で高い水準の自由化は受け入れがたい。こうした利害と思惑の中で、一五分野のうち大筋合意に達しているのはわずか二分野だけだ。

RCEPで問題となっている分野
 実際にRCEP交渉にてどのような分野が懸案となっているのか。関税交渉の他、非関税障壁つまりルールに関する分野(投資、知的所有権、サービス、電子商取引など)は広く、それだけ対立点も多い。国際NGOの分析やリーク文書、海外メディアなどから読み取れる内容をまとめてみると次のようになる。
◆農産物の関税
 主要分野の一つは、農産物などの関税問題である。すでにASEANが日中韓豪印NZと締結済のFTAで決めた関税撤廃率からさらに自由化率を高めることがRCEPでの目標となっている。ASEANとFTAを結ぶ六カ国のうち関税撤廃率が際立って低いのがインドである。他の五カ国のそれが九〇%台となっているのに対し、ASEANインドFTAでは七〇%台である。インドは中国からの安い農産物が流入してくることを警戒し、関税撤廃にはかなり消極的で、そのことが関税交渉を難航化させているといわれる。

◆知的財産分野における医薬品の特許権
二〇一五年一〇月、RCEPの知的財産分野のリーク文書が公表された。ケルシー教授の指摘通り、そこには日本と韓国がTPPと同水準の特許保護を主張している。
 問題は大きく二点ある。一つは医薬品の特許期間延長だ。提案では、製薬会社が持つ薬の特許期間を現行の二〇年より五年間延長できるとある。これにより特許を持つ先発医薬品メーカーは薬価をより長く高いまま設定することができ、ジェネリック医薬品を製造できる時期は先延ばされてしまう。
 もう一つは、薬の登録に必要な臨床試験データを新薬開発メーカーが五年間独占できるという提案だ。特許が切れた薬のジェネリック版を製造したいメーカーには薬の登録が求められるが、その際に必要な臨床試験データが独占されていれば、自ら臨床試験データを集めるしかない。そこには膨大なコストがかかるため、この「データ保護規定」は事実上、ジェネリック医薬品製造を妨げる条項となる。TPPでも製薬企業の利潤を代弁する米国とその他の国の間で最も熾烈な対立となった条項であり、WTOのTRIPS協定における特許の保護規定よりも強いものである。
 これに激しく抵抗しているのは、インドおよびASEA諸国である。インドは世界有数のジェネリック医薬品製造国で、「途上国の薬局」とも呼ばれている。独立の父マハトマ・ガンジーは、「独立国家であるためには、医薬品を自国で調達できなければならない」という思想のもと、ジェネリック医薬品産業を国策として保護育成してきた。WTOでも知的所有権兼財産権強化に反対し、医薬品アクセスの必要性を訴えてきた国の一つである。「国境なき医師団」によれば、現在もインド製の安価なジェネリック版HIV治療薬によって、世界で一七〇〇万人もが治療を受けられているという。
 もし日韓の提案がRCEPで実現してしまえば、インドでのジェネリック薬製造は困難となり、それに頼る世界中の人々に深刻な打撃を与えかねない。LDCのラオス、カンボジア、ミャンマーだけでなく、例えば国内のHIV陽性患者にインド版ジェネリック薬を無償で提供しているマレーシアなど中所得国にも影響が及ぶだろう。エイズ治療薬に限らず、薬剤耐性結核やウイルス性肝炎、非感染性疾患、薬剤耐性など、新たな公衆衛生対策に不可欠なジェネリック薬とワクチンを、インドのジェネリック医薬品産業が製造してくれることを世界の貧困国は期待しているが、それらの国にも連鎖的に影響する危険がある。
 過去数十年の自由貿易促進の中で、先進国のグローバル企業の意向に沿って知的財産は強化されてきた。ジョゼフ・E・スティグリッツ教授は、「TRIPS協定は、先進国政府と大手製薬企業のためのものであり、途上国の人々への『死刑宣告』だ」と指摘している。インドなどの市民社会は、TRIPS協定よりも強く、TPP並みの知財強化を提案している日本や韓国への批判を強めており、私たちはその加害性に無関係ではいられないはずだ。

◆知的財産分野での「農民の種子の権利」への危機
 知的財産分野における「種子」の問題には、農民たちが強い懸念を示している。
「緑の革命」以降、アジア全体に種子企業が進出し、農民たちはその種を購入するように変容させられてきた。しかしそれでもアジアの小農民の多くは、自ら種子を保存し、自由に交換し、異なる種子をかけあわせ、次の作付をするという長い伝統を守り伝えている。実際には種子企業はアジア市場へのさらなる参入を狙っている状態だ。
 RCEP交渉のリーク文書によれば、日本と韓国が「一九九一年植物の新品種の保護に関する国際条約(UPOV一九九一条約)」の批准を参加国に義務づけようと提案している。同条約は、植物の新品種を「育成者権」という知的財産権として保護することが可能にする。一九九一年版の条約署名国・組織は五二のみで(日本は一九八二年に署名)、決して大半の国が署名しているわけではない。現在、世界の種子市場の六割以上がモンサントなどの大企業六社によって占められているが、UPOV一九九一年条約はそうした企業の利益に即した条約であり、企業による種子の私有化を認め、農民に経済的負担を強いるとして、中南米はじめ途上国の農民からは「モンサント条約」と批判され続けている。TPPの知的財産権章でも同条約の批准が義務付けられており、やはりTPPの内容がRCEPに持ち込まれた事例である。
 この条約の下、種子が特許で保護されてしまえば、農民は企業に特許使用料を支払わなければならない。外部供給への依存度が高まり、食料の安定供給や食料主権も脅かされることにもつながる。何よりもこの「私有化」は、アジア地域が共通にもつ「共有」(コモンズ)という概念に反し、また現時点での農民たちの現実世界とはかけ離れた制度の導入となる。

◆ISDSと途上国
 さらに、TPPでも主権を奪う大問題と批判されたISDSも、RCEPの投資章に提案されているという。またしても日韓の提案だという。
ISDSとは、投資先国の政策や法制度の変更によって「当初予定していた利益」が損なわれたと投資家がみなした場合、相手国政府を訴え、勝訴すれば多額の賠償金を得られる投資家保護のしくみだ。環境破壊や先住民族の強制移住を引き起こした大規模開発を、政府が差し止めた直後に、大企業から訴訟を起こされたケース(エクアドルやペルー)、料金高騰や水質悪化のため水道の民営化契約を継続しなかったためグローバル水道企業から訴えられたケース(アルゼンチンやボリビア)など、世界の訴訟事例は年々増加している。
 過去に大企業から訴訟を起こされ、多額の賠償金を支払ってきた途上国や低所得国の市民社会は、RCEPの中にISDSが規定されれば、一六カ国共通の「使い勝手のいいツール」として普遍化し、訴訟ケースが増える危険があると導入に反対している。少なくとも公衆衛生や環境、金融規制などに関し政府がとる措置については、ISDS適用の「例外」としなければ、この懸念は拭えない。

◆「労働」や「環境」の章が存在しない
 知的財産やISDSなど、TPPでの「有害規定」がRCEPに持ち込まれているのとは対照的に、「労働」「環境」の章はRCEPにない。日本政府は「二一世紀の貿易ルールとして、TPPには環境や労働の章も入った」と喧伝していた。その内容は不十分であったと私たちは分析しているが、少なくとも本来RCEPに持ち込むべきはこれらの分野である。一度は豪州が提案したものの、中国の反対にあって交渉分野にはならなかったと報じられており、これらも先進国と途上国が対立する論点となっている。

なぜメガFTAは妥結しないのか?―新たな貿易のルールを
 メガFTAが妥結・発効できない個別の理由は当然あるが、各協定がリンクしながら自由化水準を高める装置として機能していることが大きな背景にある。各交渉経過から見えるメガFTAの「困難」は、主に次のように整理できる。
①貿易協定が関税中心だった「貿易」の枠組みを超え、サービスや金融、投資の自由化、それに伴う国内制度改革を強いる「ルール」へとシフトし、交渉範囲が非常に広くなっている。
②交渉参加国の経済発展段階や規模には大きな差があり、先進国と多国籍大企業が求める強い自由化ルールにすべての国が合意できない。特に途上国を含む場合、公衆衛生(医薬品を含む)や公共サービス、国有企業などの分野での対立が鮮明となる。
③先進国もこれまでの自由貿易推進に伴い国内産業が空洞化し雇用が海外へと流出。格差も広がっている。そのことのとらえ返しとしての自由貿易批判が各国で生じている。
④既存の投資家対国家紛争解決(ISDS)の非民主性・不公平性がどの貿易協定でも市民社会から厳しく批判されている。
⑤民主主義に反する秘密交渉についても、市民社会も国会議員からも批判が起こっている。しかもビジネス界は交渉内容にアクセスできる一方で、市民社会の多様なステークホルダーには秘密という非対称性への不満が高まっている。

 途上国は自由化を受け入れグローバル経済に適応したいと思う一方で、国内の貧困削減や医薬品アクセス、公共サービスの充実という社会開発的なゴールも目指さねばならない。この両者が対立的になっているために交渉も進まないのだ。発展段階に応じた関税率や保護政策、社会開発的な課題を解決するようなインセンティブを貿易協定の中に埋め込めないものかと常に考える。国連ミレニアム開発ゴール(SGDs)の達成を可能にするような貿易のあり方である。
WTOもメガFTAも矛盾と限界を露わにする中、世界は確実に次の貿易体制を模索せざるを得ない状況まで来ている。ならばこれらの課題を解決しつつ、公正で公平な貿易のフォーマットをつくることこそが求められている。