★医薬品アクセスを阻んできた知的財産権の壁
新型コロナウイルス(COVID-19)への対応として、先進国の製薬企業はワクチン開発を猛スピードで競ってきた。2020年末からいくつかの国ではワクチン接種も始まり、日本でも具体的な計画が議論されている。一方、多くの途上国・新興国は、医薬品・ワクチンや治療などの確保に大きな不安を抱えている。
COVID-19の前から、途上国・新興国での医薬品アクセスを脅かしてきたのが「医薬品の特許」の問題だ。医薬品特許をめぐる国際的なルールは、1995年に設立された世界貿易機関(WTO)での「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS協定)」で決められている。TRIPS協定は、知的財産権の保護と執行、違反の場合の措置などを定め、各国の国内法を拘束する条約だ。知的財産権には、著作権や特許、植物の新品種の保護、地理的表示や意匠など幅広い分野が含まれるが、医薬品・医療に関係するものとして代表的な医薬品の特許期間は、20年以上と定められている。医薬品の開発企業の特許を一定保護する必要はあるものの、圧倒的な経済格差の中で特許保護のみが追求されれば、貧困者には命をつなぐ医薬品は届かない。そのため、WTOにおいてはこれまでも安価な医薬品の早期で広範なアクセスを求める途上国・新興国側と、製薬企業を抱える先進国側が激しく対立してきた。
例えば、1990年代後半にアフリカを中心にHIV/エイズが蔓延した際、治療に有効な3種混合ワクチンが開発されたのだが、それを手にできたのは先進国の患者と途上国の一部の富裕層だけだった。製薬企業の持つ特許によって、年間100万円以上もの薬価がつけられたためである。最貧困国の人々が、このような高価格の薬を入手できるはずはない。多くの途上国で、何千、何万という規模の人々が「ただ貧しいから」という理由で医薬品を手にすることなく命を落としていった。
こうした深刻な事態に、HIV/エイズの患者や支援団体、医療団体、途上国政府、国際市民社会は問題提起をした。公衆衛生の危機に直面した際、特許を無効化して国内で安価なジェネリック医薬品を製造できるよう、TRIPS協定に柔軟性を持たせることを訴えたのだ。国際世論も盛り上がり、最終的にWTO加盟国はこれに合意し、2001年の「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定及び公衆の健康に関する宣言」(ドーハ宣言)によりTRIPS協定が改定されるに至った。途上国側には、緊急事態の際に「強制実施権」が担保されることになった。製薬企業の利潤追求の流れを、途上国の人々の医薬品アクセスの側に押し戻した画期的な出来事だった。
★貿易協定の中で強化されてきた医薬品特許
しかし、医薬品特許をめぐる途上国と先進国の対立は終わることはなかった。2000年半ば以降、様々な分野での対立からWTOが機能不全に陥る中で、米国など先進国は二国間貿易協定やTPPなどのメガFTAへとルール形成をシフトしていった。それら協定には必ず「知的財産権」の章が設けられ、WTOのTRIPS協定以上に知的財産権の保護を強化するような条項が次々と提案された。例えば、TRIPS協定にはない新たなルールとしてTPP協定で規定されたのが「バイオ医薬品のデータ保護期間」だ。製薬企業にとって、バイオ医薬品製造にあたっての各種データを独占的に保護できる期間は当然長ければ長いほど望ましい。一方、途上国・新興国にとっては、安価なジェネリック医薬品を早く手に入れるため特許期間は短い方がよい。TPPでは「12年」を提案する米国と、「5年」を主張するベトナム、マレーシア、豪州などが激しく対立し、交渉妥結直前の最難航分野となった。交渉は紛糾し続け、何度も延期・再設定された後、「8年」という結果となった。
2017年、米国でトランプ政権が発足すると、米国はTPPから脱退をした。米国内での激しい反対運動の結果であるが、日本はじめ他のTPP参加国にとっては想定外の大事件だ。一方、我々市民社会は、医薬品特許問題だけでなく数々の「有害条項」を含むTPP協定がこのまま消え去ることを期待した。しかし、死に体となったTPP協定を生き返らせ、米国以外の11カ国で発効できるよう猛烈に働きかけたのが日本政府だった。それから約1年後の2018年12月にTPP協定は発効した。ただし、このプロセスの中で、米国が離脱したことによる内容の変更がいくつか行われている。具体的には、医薬品特許問題を中心に、いくつかの有害条項について「米国がTPP協定に復帰するまで凍結」となったのである。例えば、上記のバイオ医薬品のデータ保護期間は、ベトナムやマレーシアなどの国にとっては受け入れがたい内容だが、こうした国々はそれを呑む代わりに、自国の安い繊維製品や食品、工業部品などを関税を米国に撤廃させることで、巨大な米国市場へのアクセスを獲得した(このように医薬品とそれ以外の産品がトレードオフの関係になることころが包括的な貿易協定の恐ろしさである)。しかし米国がTPP協定から脱退してしまえば、これら国々は米国市場へのアクセスという利益を失う。だからいったんは認めた医薬品特許の条項について譲歩はしない(少なくとも米国がTPPに復帰するまでま)と主張したのだ。したがって現状、TPP協定で医薬品特許に関するいくつかの条項は「凍結」されている。いずれにしても、このことからも医薬品特許の問題がTPP協定でいかに有害な条項であったかがうかがえる。
★RCEP協定での特許問題
2020年11月に妥結されたRCEP協定(地域的な包括的経済連携協定)の交渉の中でも、医薬品特許をめぐっては深刻な対立が続いてきた。RCEPは、ASEAN10カ国に中国、日本、韓国、豪州、ニュージーランド、インドの6カ国の合計16カ国によるメガ自由貿易協定で、2012年から交渉が始まった。日本ではTPPばかり注目されてきたが、中国・インドを含むRCEPは人口規模も大きく、またカンボジア、ラオス、ミャンマーなど後発開発途上国(LDC)はじめアジアの途上国・新興国が含まれるという意味で、経済格差も大きく、開発の課題も含まれている。
RCEPにおける医薬品特許の問題では、TPPで米国が果たしてきたような役割、すなわち製薬企業の意向を受け特許保護をTRIPS以上に強化しようとする立場を、日本が果たしてきた。例えば2014年前後にリークされた交渉テキストによれば、日本と韓国が、TRIPS協定を上回る(=TPPと同じ水準の)特許保護を提案している。もちろん、このような提案大使、インドやASEAN諸国は猛反発し、医薬品特許をめぐる攻防は交渉の中でも最難航分野となってきた。私は、RCEP交渉の現場に他国のNGOや労働組合、農民団体とともに赴き、各国の交渉官から情報を得たり、現地の人々による反対運動に参加してきた。2017年7月、インドのハイデラバードで開催された交渉会合では、大きなデモも開催された。「日本と韓国は、人々の命を弄ぶな!」と書かれたバナーを手に、日本・韓国が提案する医薬品特許の保護強化に対して激しい批判を行っていた光景は今も忘れられない。RCEPで医薬品特許に関する条項が強化され、ジェネリック医薬品の製造が阻まれてしまえば、製造国のインドはもちろん、アジアの途上国全体にその影響は及ぶ。日本は明らかにRCEPの中での「強者」であり医薬品アクセスを懸念する人々にとっての「有害国」だったのだ。
★南アフリカとインドによるCOVID-19関連医薬品の特許停止の提案
こうした歴史の延長上に、今回WTOにてインドと南アフリカが提起した、知的財産権の免除の問題がある。詳しい内容は他の執筆者に譲るとして、日本はこの提案に対して、明確に反対し続けている。米国など他の先進国と歩調を合わせ、貿易協定の中で知的財産権の強化を推進してきた日本の方針は変わっていないわけだが、しかしそれで本当にいいのだろうか。今回の提案はコロナ禍という未曽有の出来事の中で出てきたものであり、これまでとは次元の異なる対策が各国に求められている。インド・南ア提案への賛同の声が国際的に広がっているのもその証左である。
2020年10月、TRIPS理事会で特許免除が提案されて以降、特許免除を求める途上国・新興国と、「免除によってイノベーションが阻害される」と主張する先進国側の隔たりは非常に大きく、2021年になってもコンセンサスに達していない。「知的財産権は手放さない」という先進国側の態度はあまりに頑迷で、未曾有の危機を協力して乗り切ろうという姿勢は残念ながら感じられない。しかし明白なことは、やがて開発されるであろう治療薬やワクチンを最初に入手できるのは、日本を含む先進国の人々であり、途上国・新興国の圧倒的多数の人々は、いつになるのかもわからない長い順番待ちの状態に置かれるということだ。この現実に、日本の私たちを含む先進国の人々は、「仕方のないことだ」と済ませていいのだろうか? グローバルなパンデミックを本当の意味で封じ込めるためには、世界の多くの国に治療薬やワクチンを早急に行き渡らせる必要がある。今回の特許免除の提案は、これまでの「知的財産権VS医薬品アクセス」という対立構図を越えて、新たなルール形成をする契機を私たちに迫っている。
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