2019年11月5日火曜日

RCEPとは何か―日本など先進国が求める自由貿易ルール


※本稿は2017年8月時点での原稿である。2019年11月4日、RCEP参加国はタイ・バンコクにて「インドを除く15カ国での合意を目指す」との共同声明文を出した。今後、インドの動向はもちろん、最終合意に向けた動きが加速すると思われるが、そもそもRCEPとは何か、各国はどのような意向を持っているのかを概説するため、2年前の記事を再掲する。特に、アジア各国(特に途上国)の農民、先住民族、労働者にとって日本や韓国が提案してきたTPPレベルの知財、投資、電子商取引ルールは「有害」とされてきた。インド離脱に際しても、インド国内では農民、労働者、女性たち等による強固な反対運動が展開されてきた。こうした事実を含めて、メガ自由貿易協定の問題を包括的に考える契機にしていただければ幸いである。(2019年11月4日)




RCEPとは何か
 二〇一六年一一月、米国でトランプ大統領が誕生してから、世界の風景は一変した。最も大きな出来事の一つは、米国のTPP撤退だろう。二〇一〇年以降、米国はTPPやTTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)などの自由貿易協定を通商政策の柱に位置付け、交渉では一貫して主導権を握ってきた。その米国自身がTPPを「悪しき協定」と定義し撤退したことは、あまりにも皮肉な結末だった。
 TPPの難航と崩壊は、決して特殊な事例ではない。WTO停滞の中で二国間貿易協定(FTA)が推進され、その延長上に二〇一〇年以降に到来したのがメガFTA時代だ。現在交渉中のメガFTAは、TPP、TTIP、日EU経済連携協定、TiSA、日中韓FTAなどである。これらは交渉開始から約四年以上経つが、いずれもこの一~二年で明らかに停滞している。RCEPもその一つである。
 二〇一三年五月から始まったRCEP交渉は、ASEAN一〇か国(ブルネイ、ミャンマー、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)と、ASEANと自由貿易協定(FTA)を締結している中国、インド、日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの計一六カ国による自由貿易協定である。TPPの経済規模は三一〇〇兆円(世界貿易の約四割)、八億人の市場であるのに対し、RCEPは約二〇〇〇兆円(世界貿易の約三割)、人口では世界全体の約半分の三四億人もの広域経済圏となる。
 交渉分野は広く、モノとサービスの貿易から、投資、知的所有権、食の安心・安全、電子商取引、中小企業、経済的・技術的な協力、など合計一五分野と言われている。
 秘密交渉で進められている点もTPPと共通している。実はRCEPにはTPPの時のような「保秘契約」は存在しないのだが、TPP交渉よりも政府からの情報量は圧倒的に少なく、また漏洩されるリーク文書も少ない。ところがビジネス界はかなり交渉にコミットしており、ここに情報開示の非対称性が存在する。私自身は二年ほど前から国際NGOメンバーの一員として、RCEPについても情報収集と発信を行ってきたが、日本でほとんどの人がRCEPを知らないし、マスメディアもほとんど扱わない。

中国主導というミスリード
 RCEPには、文化や宗教、そして経済発展の度合いも、TPPをはるかに超える多様性・多元性が存在している。事実、一六カ国の経済指標は大きな開きがある。中国、日本などの経済大国をはじめオーストラリア、韓国などの先進国が含まれる一方、最も貧しい後発開発途上国(LDC)やインドネシア、フィリピンなどの中所得国も参加する。LDCとは、所得水準、健康や就学率、経済的脆弱性などを基準に定義する国々で、現在、世界で四八カ国が該当する。RCEP参加国の中ではラオス、カンボジア、ミャンマーだ。例えばラオスでは一日一.九〇ドル未満(年間約七万六〇〇〇円)で生活する「絶対的貧困層」は、全人口六五〇万人のうち過半数もいる。こうした国と、日本など先進国との経済格差はあまりに大きい。
 RCEPは「中国主導」とよく比較される。しかし、様々な情報や各国NGO、交渉官と話す中で得られる印象は、決してRCEPを主導するのは中国ではないということだ。
ここには二つの意味がある。RCEPの原点は、二〇一一年一一月、インドネシア・バリ島で開催された第一九回ASEANサミットにおいて、アジア広域経済圏の構想として出された提案である。交渉の中でも、ASEANの結束は堅く、まさに一六カ国の「ハブ」の役割として、日中韓印豪NZの六カ国に対峙しているというのが基本的な構図だ。実際、LDCや低所得国の中には、二~三カ月に一度もある会合に交渉官を派遣する資金に苦しむ国もあるため、大国の都合で交渉が進まないよう結束する必要もある。
 「中国主導」がミスリードであるもう一つの側面は、日本やオーストラリア、ニュージーランド、韓国のイニシアティブである。これらの国はTPP参加国あるいは米国とFTAを締結済みの国である。言い換えれば、TPPや韓米FTAの強い自由化水準を「すでに了解した」国である。TPPの雲行きが怪しくなる中で、「TPPグループ」の国々は、TPPと同じ内容をRCEPにて提案するようになる。インドや中国はといえば、それぞれの自国の論理で鵺のように対応している印象がある。創設五〇年にあたる二〇一七年中の妥結をめざすASEANは早期合意を優先しつつも、急激で高い水準の自由化は受け入れがたい。こうした利害と思惑の中で、一五分野のうち大筋合意に達しているのはわずか二分野だけだ。

RCEPで問題となっている分野
 実際にRCEP交渉にてどのような分野が懸案となっているのか。関税交渉の他、非関税障壁つまりルールに関する分野(投資、知的所有権、サービス、電子商取引など)は広く、それだけ対立点も多い。国際NGOの分析やリーク文書、海外メディアなどから読み取れる内容をまとめてみると次のようになる。
◆農産物の関税
 主要分野の一つは、農産物などの関税問題である。すでにASEANが日中韓豪印NZと締結済のFTAで決めた関税撤廃率からさらに自由化率を高めることがRCEPでの目標となっている。ASEANとFTAを結ぶ六カ国のうち関税撤廃率が際立って低いのがインドである。他の五カ国のそれが九〇%台となっているのに対し、ASEANインドFTAでは七〇%台である。インドは中国からの安い農産物が流入してくることを警戒し、関税撤廃にはかなり消極的で、そのことが関税交渉を難航化させているといわれる。

◆知的財産分野における医薬品の特許権
二〇一五年一〇月、RCEPの知的財産分野のリーク文書が公表された。ケルシー教授の指摘通り、そこには日本と韓国がTPPと同水準の特許保護を主張している。
 問題は大きく二点ある。一つは医薬品の特許期間延長だ。提案では、製薬会社が持つ薬の特許期間を現行の二〇年より五年間延長できるとある。これにより特許を持つ先発医薬品メーカーは薬価をより長く高いまま設定することができ、ジェネリック医薬品を製造できる時期は先延ばされてしまう。
 もう一つは、薬の登録に必要な臨床試験データを新薬開発メーカーが五年間独占できるという提案だ。特許が切れた薬のジェネリック版を製造したいメーカーには薬の登録が求められるが、その際に必要な臨床試験データが独占されていれば、自ら臨床試験データを集めるしかない。そこには膨大なコストがかかるため、この「データ保護規定」は事実上、ジェネリック医薬品製造を妨げる条項となる。TPPでも製薬企業の利潤を代弁する米国とその他の国の間で最も熾烈な対立となった条項であり、WTOのTRIPS協定における特許の保護規定よりも強いものである。
 これに激しく抵抗しているのは、インドおよびASEA諸国である。インドは世界有数のジェネリック医薬品製造国で、「途上国の薬局」とも呼ばれている。独立の父マハトマ・ガンジーは、「独立国家であるためには、医薬品を自国で調達できなければならない」という思想のもと、ジェネリック医薬品産業を国策として保護育成してきた。WTOでも知的所有権兼財産権強化に反対し、医薬品アクセスの必要性を訴えてきた国の一つである。「国境なき医師団」によれば、現在もインド製の安価なジェネリック版HIV治療薬によって、世界で一七〇〇万人もが治療を受けられているという。
 もし日韓の提案がRCEPで実現してしまえば、インドでのジェネリック薬製造は困難となり、それに頼る世界中の人々に深刻な打撃を与えかねない。LDCのラオス、カンボジア、ミャンマーだけでなく、例えば国内のHIV陽性患者にインド版ジェネリック薬を無償で提供しているマレーシアなど中所得国にも影響が及ぶだろう。エイズ治療薬に限らず、薬剤耐性結核やウイルス性肝炎、非感染性疾患、薬剤耐性など、新たな公衆衛生対策に不可欠なジェネリック薬とワクチンを、インドのジェネリック医薬品産業が製造してくれることを世界の貧困国は期待しているが、それらの国にも連鎖的に影響する危険がある。
 過去数十年の自由貿易促進の中で、先進国のグローバル企業の意向に沿って知的財産は強化されてきた。ジョゼフ・E・スティグリッツ教授は、「TRIPS協定は、先進国政府と大手製薬企業のためのものであり、途上国の人々への『死刑宣告』だ」と指摘している。インドなどの市民社会は、TRIPS協定よりも強く、TPP並みの知財強化を提案している日本や韓国への批判を強めており、私たちはその加害性に無関係ではいられないはずだ。

知的財産分野での「農民の種子の権利」への危機
 知的財産分野における「種子」の問題には、農民たちが強い懸念を示している。
「緑の革命」以降、アジア全体に種子企業が進出し、農民たちはその種を購入するように変容させられてきた。しかしそれでもアジアの小農民の多くは、自ら種子を保存し、自由に交換し、異なる種子をかけあわせ、次の作付をするという長い伝統を守り伝えている。実際には種子企業はアジア市場へのさらなる参入を狙っている状態だ。
 RCEP交渉のリーク文書によれば、日本と韓国が「一九九一年植物の新品種の保護に関する国際条約(UPOV一九九一条約)」の批准を参加国に義務づけようと提案している。同条約は、植物の新品種を「育成者権」という知的財産権として保護することが可能にする。一九九一年版の条約署名国・組織は五二のみで(日本は一九八二年に署名)、決して大半の国が署名しているわけではない。現在、世界の種子市場の六割以上がモンサントなどの大企業六社によって占められているが、UPOV一九九一年条約はそうした企業の利益に即した条約であり、企業による種子の私有化を認め、農民に経済的負担を強いるとして、中南米はじめ途上国の農民からは「モンサント条約」と批判され続けている。TPPの知的財産権章でも同条約の批准が義務付けられており、やはりTPPの内容がRCEPに持ち込まれた事例である。
 この条約の下、種子が特許で保護されてしまえば、農民は企業に特許使用料を支払わなければならない。外部供給への依存度が高まり、食料の安定供給や食料主権も脅かされることにもつながる。何よりもこの「私有化」は、アジア地域が共通にもつ「共有」(コモンズ)という概念に反し、また現時点での農民たちの現実世界とはかけ離れた制度の導入となる。

◆ISDSと途上国
 さらに、TPPでも主権を奪う大問題と批判されたISDSも、RCEPの投資章に提案されているという。またしても日韓の提案だという。
ISDSとは、投資先国の政策や法制度の変更によって「当初予定していた利益」が損なわれたと投資家がみなした場合、相手国政府を訴え、勝訴すれば多額の賠償金を得られる投資家保護のしくみだ。環境破壊や先住民族の強制移住を引き起こした大規模開発を、政府が差し止めた直後に、大企業から訴訟を起こされたケース(エクアドルやペルー)、料金高騰や水質悪化のため水道の民営化契約を継続しなかったためグローバル水道企業から訴えられたケース(アルゼンチンやボリビア)など、世界の訴訟事例は年々増加している。
 過去に大企業から訴訟を起こされ、多額の賠償金を支払ってきた途上国や低所得国の市民社会は、RCEPの中にISDSが規定されれば、一六カ国共通の「使い勝手のいいツール」として普遍化し、訴訟ケースが増える危険があると導入に反対している。少なくとも公衆衛生や環境、金融規制などに関し政府がとる措置については、ISDS適用の「例外」としなければ、この懸念は拭えない。

◆「労働」や「環境」の章が存在しない
 知的財産やISDSなど、TPPでの「有害規定」がRCEPに持ち込まれているのとは対照的に、「労働」「環境」の章はRCEPにない。日本政府は「二一世紀の貿易ルールとして、TPPには環境や労働の章も入った」と喧伝していた。その内容は不十分であったと私たちは分析しているが、少なくとも本来RCEPに持ち込むべきはこれらの分野である。一度は豪州が提案したものの、中国の反対にあって交渉分野にはならなかったと報じられており、これらも先進国と途上国が対立する論点となっている。

なぜメガFTAは妥結しないのか?―新たな貿易のルールを
 メガFTAが妥結・発効できない個別の理由は当然あるが、各協定がリンクしながら自由化水準を高める装置として機能していることが大きな背景にある。各交渉経過から見えるメガFTAの「困難」は、主に次のように整理できる。
①貿易協定が関税中心だった「貿易」の枠組みを超え、サービスや金融、投資の自由化、それに伴う国内制度改革を強いる「ルール」へとシフトし、交渉範囲が非常に広くなっている。
②交渉参加国の経済発展段階や規模には大きな差があり、先進国と多国籍大企業が求める強い自由化ルールにすべての国が合意できない。特に途上国を含む場合、公衆衛生(医薬品を含む)や公共サービス、国有企業などの分野での対立が鮮明となる。
③先進国もこれまでの自由貿易推進に伴い国内産業が空洞化し雇用が海外へと流出。格差も広がっている。そのことのとらえ返しとしての自由貿易批判が各国で生じている。
④既存の投資家対国家紛争解決(ISDS)の非民主性・不公平性がどの貿易協定でも市民社会から厳しく批判されている。
⑤民主主義に反する秘密交渉についても、市民社会も国会議員からも批判が起こっている。しかもビジネス界は交渉内容にアクセスできる一方で、市民社会の多様なステークホルダーには秘密という非対称性への不満が高まっている。

 途上国は自由化を受け入れグローバル経済に適応したいと思う一方で、国内の貧困削減や医薬品アクセス、公共サービスの充実という社会開発的なゴールも目指さねばならない。この両者が対立的になっているために交渉も進まないのだ。発展段階に応じた関税率や保護政策、社会開発的な課題を解決するようなインセンティブを貿易協定の中に埋め込めないものかと常に考える。国連ミレニアム開発ゴール(SGDs)の達成を可能にするような貿易のあり方である。
WTOもメガFTAも矛盾と限界を露わにする中、世界は確実に次の貿易体制を模索せざるを得ない状況まで来ている。ならばこれらの課題を解決しつつ、公正で公平な貿易のフォーマットをつくることこそが求められている。



2019年10月27日日曜日

日米貿易協定の問題点:米国専門家からも“WTO違反”の指摘

 20191024日、衆議院本会議にて「日米貿易協定」及び「日米デジタル貿易協定」の審議が始まった。安倍首相はじめ政府は一貫して「ウィンウィンの結果」と主張するが、専門家による各種分析や野党からの質問によって、その根拠は極めて乏しいことが次第に明らかになっている。  
 私自身は、日米貿易協定については日本国内への影響に関してはもちろんだが、それだけでなく国際貿易体制という観点からの分析が必要であると強く考えている。その際に大きな問題として挙げられるのが、この協定がWTOに違反しているという点だ。

これについては、自由貿易を推進する専門家からも早い段階から指摘がされ、また拙稿多国間貿易体制を脅かす日米貿易協定―WTO違反をしてでも米国の要望に応えるのか」(ハーバービジネスオンライン)でも詳しく論じた。国会審議でも、野党側からこのことはすでに追及されてもいる。
しかし、日本政府の説明や答弁を見ていると、政府は「WTOには違反していない」との姿勢をとり、この問題を真摯に受け止めるどころか、まったく意に介していない態度だ。例えば、政府が出した協定の「影響試算」では、WTO違反として指摘されている、米国側の自動車・自動車部品の関税撤廃について、明確な約束を取り付けられていないにも関わらず、「将来的に関税撤廃をする前提」として、米国側が関税撤廃をした際の92%の関税撤廃率を前提にして影響試算を行っている。それだけでも問題だが、野党から「米国の自動車・部品の関税が撤廃されない場合の試算も出してほしい」との要求に、政府は「撤廃が前提なので出せない」と拒否している。これでは到底、客観的な議論などできるはずもない。

日本政府のこのような態度は、誠実さや透明性に欠け、「国内的にうまく説明すれば何とかなる」という意識を感じざるを得ない。また残念ながら、そのような政府の姿勢が影響してしまうのか、国会議員、マスメディア、市民など含め、我々の側も非常に内向きな議論に拘泥しがちである。
そこで本稿では、主にWTO違反問題を中心に、米国の通商交渉専門家やロビイストなどが日米貿易協定をどう分析しているかを紹介する。

Cato Institute(ケイトー研究所)
まず、日本でも知られる保守系シンクタンク「Cato Institute(ケイトー研究所)のサイモン・レスター氏は、署名・協定文公開直後の108日、「日米の新たな貿易協定(原題:The New U.S.-Japan TradeDeal)」の中で、日米貿易協定に関して、①自由化の度合い、(2WTOとの整合性、(3)米国議会の承認のない執行協定として進めることの影響、(4)紛争解決条項の欠如、の4つの観点から分析と問題提起をしている。
このうちWTO違反問題に該当する部分を紹介しよう(翻訳は筆者)。

「“実質的にすべての貿易”をカバーする場合にのみ二国間合意を許可するWTO規則が、(日米貿易協定のような)限られた範囲での協定と一致するのかどうかという問題がある。この協定は、GATT24条の下での“中間協定”として認められるだろうか? GATT245(c) は次のように規定する。“サブパラグラフ(a)及び(b)で言及される中間協定は、関税同盟または自由貿易地域の形成に関して、合理的な期間内での計画および日程が含まれなければならない”。これまでのところ、日米貿易協定の中には、包括的なFTAに向けた“計画と日程”を見いだせない。しかしおそらく、何らかのことがなされるのだろう(ファクトシートでは、“米国は、関税及び非関税障壁に関する残された課題に対処し、またより公正でバランスの取れた貿易を実現するために、日本とのさらなる交渉を楽しみにしている”ということのみ記載されている)。
関連する問題は、他国の政府はこれら全体をどう考えるのか、ということだ。問題となっているすべての製品について、日米の関税引き下げにより悪影響を受ける他国の生産者が生じる可能性がある。彼らは、日本と米国の両方に対してWTO規則を遵守するよう攻撃的になるだろうか? それとも、トランプ政権が自由化を行ったことを喜び、不満を述べることを恐れるのだろうか?」

 レスター氏は日米貿易協定がGATT24条に反しており、またいわゆる「中間協定」にも定義されないことを指摘している。
 また氏は、WTO違反の問題と同時に、(4)紛争解決規定が含まれていない点も指摘している。実はこの点は私自身も気になっていた点だ。通常、WTOはもちろんのこと、個別のFTAEPAにおいても、国と国の紛争解決規定は定められるものである。日本がこれまで締結してきたすべてのFTAEPAにも紛争解決規定は含まれている。ところが、日米貿易協定には紛争解決規定がない。これについて日本政府は、「日米という同盟国及び先進国同士の協定であるため紛争解決規定は設けていない」と説明している。だが、グローバル企業の活動が広がり企業の資本関係も多様化する中で、先進国同士の協定だから紛争規定を設けなくてもよいとの理屈は通るだろうか。
 レスター氏は、「日米貿易協定は当面、関税のみを対象をしているため協定違反や紛争が発生する可能性は低いためフルセットの紛争解決規定は必要ないかもしれない」としながらも、「訴訟、実施、およびコンプライアンスというフルセットの紛争規定条項がないままで、新たな法的義務は執行可能となるだろうか?」と疑問を呈している。
 ちなみに、日米貿易協定第6条では、「両締約国は、いずれかの締約国の要請の後30日以内に、この協定の運用又は解釈に影響を及ぼす可能性のある問題について、60日以内に相互に満足すべき解決に達するために協議を行う」との規定がある。おそらく日本政府は、これをもって紛争解決規定の代替とするということなのだろうが、通常のFTAEPAにあるような具体的なメカニズムが規定されていない曖昧な内容で、紛争解決規定とは言えない。
日米共同声明等には、今後も包括的なFTAを目指して両国は交渉を継続することが明記されている。その行方や時期は見通せないものの、仮に交渉が他分野にも拡大していった場合、レスター氏が言うように、一連の紛争解決規定が整っていないことは、今以上に重大な問題となる。

★ロビイ企業 WhiteCase
 次に、米国でも有力なロビイスト企業として知られるロー・ファームのWhiteCaseは、大筋合意後の94日、「米国と日本は“大筋合意”に到達したが、疑問と障害が残る」(原題:United States and Japan Reach "Agreement in Principle,"but Questions and Obstacles Remain)を発表。
 ここでは、農産品や工業品など各分野での関税撤廃・削減の結果を概観した上で、「日米のFTAが発効する前に、手続き及び政治的な面で、いくつかの障害が残る」とし、その一つとして「WTOとの整合性問題」を挙げている。こちらも以下に抜粋して紹介する(翻訳は筆者)。
 
「対象範囲が農産品、特定の工業製品、デジタル貿易に限定されていることから、WTO加盟国の中には日米貿易協定がGATT24条と整合的であるか、疑問に思う国もあるだろう。(中略:GATT24条の規定の説明)日米貿易協定が両国間の“実質的にすべての貿易”をカヴァーしていない場合、GATT248項に反しているとみなされるだろう。伴って、GATT1条に規定された最恵国待遇にも反する。
しかし、この懸念は、GATT245項が示す範囲内で「中間協定」として認められる場合には日米貿易協定には適用されない可能性がある。この条項は、条件を満たしている限り、“本協定のこの条項は、締約国の領域の間で、関税同盟を組織し、若しくは自由貿易地域を設定し、又は関税同盟の組織若しくは自由貿易地域の設定のために必要な中間協定を締結することを妨げるものではない”としている。(中略:中間協定として認められるための条件の説明)
 一方、GATT247(b)は、WTO加盟国がこの“中間協定”について、当事国の意図する期間内に関税同盟が組織され、または自由貿易地域が設定される見込がないか、もしくはその期間が妥当でないと認めたときには、協定の当事国に対して勧告を行うことを認めている。この勧告を受けた当時国は、“その勧告に従ってその中間協定を修正する用意がないときは、それを維持し、又は実施してはならない”とされている。これらの条項は検証されていないが、ホワイトハウスがこの協定を包括的な貿易協定の「第1段階」と定義づけていることに照らせば、同条項が日米貿易協定に適用される可能性がある。特に日本側は、本協定とWTO規律の整合性と、協定及びその実施に影響を与えるだろうこれら手続き上のハードルを懸念する可能性が高い」(傍線は筆者)

 ここでも、日米貿易協定がWTO違反である可能性が指摘されている。特に注目すべき指摘は、GATT247(b)では、GATTの締約国団が、ある貿易協定をWTO違反だと考えた場合、当事者国に対して勧告できる旨を規定している点だ(下線部)。この勧告を受けた当時国は、勧告に従って中間協定を修正する用意がないときは、当該協定を維持したり、実施してはならないとされている。もちろん、実際にGATT加盟国団が日本と米国に対して、この協定はWTO違反であると勧告をする可能性は低い。しかし、WTO交渉時代から、米国は途上国・新興国の市場を強行に開放させ、日本もまた、アジア諸国など途上国政府に関税撤廃による市場開放を強く求めてきた。力関係に従うしかなく、市場開放を行ってきた国も多い。そのような国々からすれば、仮に上記勧告をしなかったとしても今回の日米貿易協定は、「日米合作のルール破りのいかがわしい協定」に他ならない。多くの人が日米関係の中だけで「米国から攻められた」と言うが、世界の中で見れば「日本はトランプ大統領に二国間FTAでの勝利という『成功体験』を初めて与えた国」であり、多くの国にとって迷惑あるいは有害な国になるのではないか。


Peterson Institute(ペーターソン研究所)

やはり日本でも知られるワシントン拠点のシンクタンク「ペーターソン研究所(PIIE)」のジェフリー・スコット氏は、2019927日、「車輪の再発明:米国と日本の貿易協定の第一段階」(原題:Reinventing the Wheel: Phase One of the US-Japan Trade Pactにて、協定の概要と問題点を指摘している。ちなみにタイトルの「車輪の再発明」とは英語の慣用句で、すでに存在している物や技術と同じものを一から作ることを意味する。

 スコット氏は、日米貿易協定の結果を「トランプ大統領がTPPの離脱によって失った利益を部分的に回復する以上のものではない」と手厳しく評価した上で、「日米両国は、2020年春に交渉テーブルに戻り、物品及びサービス貿易、投資などに関するより広範な第2段階の協議を予定している」と述べている。
 また氏は以下のように分析している(翻訳は筆者)

「協定の最も重要な面は、おそらく協定に“含まれていない”条項だろう。自動車及び自動車部品は、日本から米国への輸出工業品の約38%を占める。しかしこの協定は、既存の米国の自動車の輸入規制(筆者註:関税を意味する)に変更を加えてはおらず、また日本にとっての脅威であり続ける米国による日本車への将来の貿易障壁(筆者註:高関税措置を意味する)から日本を除外するという約束を、少なくとも名目上は行っていない。トランプ政権は、早ければ201911月中旬に米国通商拡大法232条に基づいて、これらの関税を日本およびヨーロッパに課すことができる。
 日本は、自動車についての新たな保護主義に対抗する保証を主張していたが、日本の交渉官は、“日米両国は、これらの協定が誠実に履行されている間、両協定及び本共同声明の精神に反する行動を取らない。また、日米両国は、他の関税関連問題の早期解決に努める”という日米共同声明の曖昧なコミットメントに落ち着いた。にもかかわらず、日本の指導者はこの声明を確信している。安倍晋三首相は、“トランプ大統領と私自身の間で、これ以上の追加関税が課せられないことがしっかり確認された”と記者会見で宣言した。USTRのロバート・ライトハイザー代表は、安倍首相の発言を一部繰り返し、自動車関税措置の計画はないと述べた。しかしこれらの保証は、過去2年間の関税の脅威に関するトランプ大統領の気まぐれな行動を背景に置いて考えなければならない」

 スコット氏のこの指摘は非常に重要である。つまり、日米貿易協定に明記されなかった点や、曖昧にしか記載されていない部分こそ重要であるということだ。日本政府は「米国は期限を決めていないが、自動車・自動車部品の関税撤廃を約束した」と主張するが、スコット氏も「この協定は既存の米国の自動車の輸入規制(関税を意味する)に変更を加えてはおらず」と指摘する通り、米国側は「自動車関税を交渉の対象にする」と付属書にて約束しているが、「必ず撤廃する」という約束はしていないようだ。米国側のファクトシート等にも「自動車・部品の関税撤廃」は一切触れられていない。仮に、日本政府の主張が正しいとすれば、米国は国内でも最重要セクターである自動車産業に対し、「関税撤廃を(将来的にであっても)必ずする」とした約束を公表していないことになる。米国自動車業界がそのような政府の嘘を許すはずはなく、やはり米国政府は「関税撤廃については交渉次第であって約束はしていない」と認識しているからこそ、結果を明記していないのではないか。
 また、WTO違反問題については、氏は次のように述べている。(翻訳:筆者)

「現協定の範囲は限られているため、“実質的にすべての貿易”を対象とする包括的な自由貿易協定の一部でない限り、すべてのWTO加盟国に対して関税撤廃をすると定めたWTOの下で、米国の関税撤廃の義務が違反しているかどうかについて、国内外で懸念が提起されている。米国と日本の第一段階の協定が、この基準を満たしていないことは明白である。しかし、米国政府当局は、包括的な協定が完成すればWTOと整合的になると主張している。いずれにせよ、日米貿易協定がWTOの基準に達するためには、第2段階の交渉を迅速かつ包括的に行う必要がある」(傍線筆者)

 留意すべきは、もし米国側が現時点の協定をWTO違反であると認識している場合は、氏が指摘するように中間協定として整理し、その後すみやかに包括的なFTAとして完成させることでこの問題を解消しようとするかどうかだ。もちろん年明けからは大統領選挙戦が本格化していく中で、包括的なFTA交渉に取り組むことは現実的ではない。今後、日米はこの問題を議会や国際社会にどのように説明していくつもりなのか。もちろんWTO違反の状態を放置し続け発効することは大問題だ。十分に監視し問題提起をしていかなければならない。


※本稿は随時更新していきます。最終更新日:201910月28日